ある人のあるサイトへの投稿。
コピーすること、許してください。
それだけ、貴女の言葉に救われているので・・・


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どんなに頑張っても、どうにもならないことがある。

毎年、朝顔を植えるのを恒例としてきたが、今年初めて会社のベランダに植えた朝顔(発芽4本)は、ついに花を咲かせることも種を残すこともできずに季節を終えた。

朝顔には十分な日光が必要である。
一日のうち、10分ほどしか直射日光が当たらず、まわりを大きなビルに遮られたベランダの朝顔は必死で光を求め、あちこちへ這ってみたが、青白い細い茎から養分を先端に集めて一夏さまよったあげく、力尽きた。

諦めて引きちぎるワタシの顔に、昨日の雨の残りか、水滴が散った。
凡庸だが、この朝顔は泣きたい気持ちであっても不思議ではないと思った。
視点を変えて、ワタシがこの朝顔でない保証はどこにもない。

人間も自然の一部である限り、人生は環境に大きく左右される。
ワタシは人間だから、日当たりのよい違う土壌へ移り住むことも可能である。
それは、案外簡単でもある。

しかしこの日陰の朝顔は、花も実も結ばなくとも憐れみを受けるような生涯ではない。
植えられた土壌がどこであれ、繁殖のために日光を求め続ける間には、光合成もし、しばしの間ではあるものの涼しげな緑の葉を張り巡らせた。
残る物はなくとも、生きているだけで何がしかの影響や恩恵を周囲に与え続けたのだ。

苦しみの原点からのがれる些細な知恵が、枯れた蔓と一緒にワタシの手に巻き取られた気がした。
苦難は多々あるが、自然に枯れるまで与えられた土壌で日常を全うしたいと強く決心する。
何を残すかではなく、どう生きるかにエネルギーを注ごう。
最期まで光を求めてさまよう蔓であろう。

光がそれぞれにとって何であるかは、この際問題ではない。