お昼頃 次兄O(オー)がひとり暮らす家に、父が訪ねる(父は毎日様子を見に行っている)。14時に訪問看護のTさんが来ると、Oが言っていたとのこと。

14:00頃 訪問看護のTさんにOが訪問看護の断りの電話を入れた。その頃に包丁で自傷行為(電話とどちらが先かは不明)

腹部14カ所の刺し傷、6カ所腹腔内に達する(うち2カ所は肝臓損傷)
手首、首、顔にも創傷あり
左耳、軟骨が見えるほどもげる、額に擦り傷→2階から飛び降りたか?


16:20頃 Oから精神科の主治医M先生にTEL

16:25頃 M先生から私の携帯にTEL、病院指定の上私に救急要請をするよう依頼あり→119をして京都の救急の電話番号を聞き、救急車要請

16:40頃 Oの状況、京都の救急から連絡あり「意識ははっきりしている」
その頃、OはD病院に収容される、またM先生も紹介状を持って駆け付けてくださる
私、京都に向けて出発

17:27
  北警察よりTEL(警察も来たのか・・)搬送の際、鍵を開けたままなので閉めるようにと依頼される

17:46  M先生よりTELあり、Oが手術室に入ったとのこと(実際には17時過ぎには手術が始まっていたようだ)

18:00  ようやく父と連絡つく。父にもD病院へ来るように言う。

18:15  D病院へ到着、M先生と話をする。 訪問看護のYさんも来てくださる。

19:00頃 父到着

20:00過ぎ 手術の途中に執刀医より説明あり(そこで、上記のとおりの傷の詳細を知る)。出血性ショックのため輸血もしたとのこと。かなり危険な状況だったようだ。

21:00過ぎ 手術終了

22:00  ICUにうつったOと面会。呼びかけに反応。一安心で帰路に。

23:30  帰宅


なぜ、自殺しようとしたのか?
M先生の話では幻聴に命令されることもあるとのこと。
今回のOの行為が病気によるものかはまだわからない・・・・・

私はこのままOが助からない方がいいと思った。期待した。
そんな私をと思う人がほとんどだろう。
しかし私は13歳の時から、怖い思い、嫌な思いをさせられ
その後30年以上もずっと、心休まることがなかった。

たいして私を可愛がってくれたワケでもない兄を、家族だからというだけで無条件に愛するなんてできない。
そんなことができるのは親だけだ。
父親ですら、あの頃息子の死を願っていたではないか。
母親は息子の行く末を案ずることも忘れて死んだではないか。


父が倒れたら、私がOの面倒を見なければならないのだ。
正直、私はOに対して今でも気持ち悪い、怖いと思っている。
それほど、10代の私は傷ついた。
自殺を図ったとの報に、「死んだらどうしよう!」という悲痛な気持ちはなかった。
繰り返しになるが・・期待した。今回、私のOへの気持ちが自分でもはっきりした。私は鬼畜の心を持つ、ろくでなしやね。

母は、「私が死ぬ時、Oも一緒に連れて逝く」と言っていたが・・連れて逝かなかった。
だから心の中で「お母ちゃん、チャンスやで。」と言ったが、Oは一命をとりとめた。
死者があの世からどうこうなんてことは絶対にない。また確信した。

私が夫の転勤について行って、新居浜に暮らしていたらどうなっていたのだろう。
おかしくなって伏見署に保護された時も私に連絡が来た。
老父はこういう時、からっきしアテにならない。
Oがおかしくなる前に家を出て、地獄のわが家を経験せず、今回のようなこともまったく関与しないでいられる長兄の立場・・・・
おかしいやろ、それ。

誰かが誰かの孫が生まれたというブログに「命をつなぐってすばらしい」と書いていた。
私の母は、「どうして死ぬのに生まれるの?」という私の問いに「鎖をつなぐため」と答えた。

とてもすばらしいことだとわかっている。これ以上の幸せがあるだろうか?
幸せそうな親子を見る時、どうかその幸せが続きますように・・と願わずにはいられない。

私が子どもの頃、Oの成長が遅い・不器用・・といった小さな悩み以外、普通に幸せな家族だった。
Oも私も、普通に成長し、当たり前のように子を持ち、色々と悩みながらもその子が育っていってくれていたら、どんなによかったろう。

・・・でも、うまくつながらない例はあるのだ。
手放しにすばらしいと言えない事情があるのだ。

Oが生き残ったことで、さらに大変になった。
目が離せない・・・ということになるから。
老父だって、いつまでも生きてはいない。
私は夫婦で暮らすことも許されない。

Oが一番かわいそうやねんから。
いつもいつも・・母に言われた。
誰かよりはマシと比較して、自分はつらいことをつらいと言ってはいけないのか?

Oは生き残った。
苦悩は続くのだ。本人はもちろん、家族の苦悩も。