平成7年(1995年)1月17日、5時46分・・

私は公認会計士第二次試験の受験勉強中で、その日も専門学校の早朝答練を受けるために、朝食を食べていた。
寒くて、椅子の上に正座していた。ご飯茶わんを持っていた。

京都市内であったが、それまでに経験したことのない揺れに、母がとっさにストーブを消した。
あとは2人抱き合っておさまるのを待っていた。

それでも答練に向かう。
その時はまさか未曾有の大災害とは思っていなかったから・・

京阪電車は何回も止まりながらも運行していた。
答練開始から30分後、まさかみんな来ていないだろう、と思って教室のドアを開ける。
皆、電卓をバシバシ叩いていた。

やはり強烈だったのだろう。
その日が簿記の答練でしかも「逆進問題」だったことまで覚えている。
答練後、普段通り自習室で勉強をしていると、どうもヘリコプターの音が激しい。
昼休み、死者が200人を超えた・・という情報が。
午後から休講、数日間休校となった。

その後は報道されているとおり。

その年は2回目で最後の受験と決めていた。
前職が芦屋のフィットネスクラブ、まだ退職してから2年。
プールの子どもたち、会員さん、元同僚・・とても心配だった。
毎日、新聞で「亡くなった方々」欄に目を通す。
ボランティアに行くべきなんじゃないか?
こんなところに座って、勉強している場合か?
葛藤した。

でも、ごめんなさい・・
私は【今年】どうしても受からないといけないんです。
心の中で謝りながら、さらに必死で勉強した。

前年に大学4回生で第二次試験に合格し、平成7年4月から大手監査法人への就職が決まっていた若者が犠牲になっていた。
卒論のためにたまたま神戸に戻っていた・・と聞いている。

彼が生きていたら、40歳でキャリア18年の公認会計士。
どんな活躍をしていただろうか・・

私はこの年、合格することができ、今年10月でこの業界に入って18年。
私はずっと生きていたが、この業界で何を成し遂げただろうか・・

18年前、理不尽にも亡くなった方々、18年間震災を背負って生きておられる方々に思いを寄せ、今も生かしてもらっていることに感謝したいと思う。
そして、今いただいている仕事を精一杯やること。
今日からまた気持ちをしっかり入れてやっていこう。

黙祷