担当のPSWさんに送った文章をそのまま貼り付けます(長文)。
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医療法人 ◎◎会 △△病院
医療福祉相談室 ソーシャルワーカー ○○ 様
参考になるかわかりせんが、○○○(兄)のこれまで(発達障害っぽいところ)を綴ってみました。今までにもお伝えしたこと、一部私の愚痴もありますがお許しください。
1. 生まれる時
●帝王切開。次に生まれる私との比較で、麻酔が効き過ぎていたように思うと亡き母語る。私の時は切っている感触があり医師の会話も聞こえ意識はあったが、兄の時はまったく意識がなかったとのこと。
2. 乳幼児期
●とにかくおとなしく育てやすかったと母。長兄がわがままですぐ癇癪を起こしたのとは対照的。
●母から離れなかったらしい。母がトイレに行くとドアの前でずっと待っていた。なので、母にとってはすごくかわいかったようだ。
●父曰く幼稚園の時、お遊戯ができず皆の動作とワンテンポずれていた。
●幼稚園には年中で入園し、なぜか途中から保育園に転園している(その頃母は専業主婦)。
●小学校入学に際しては普通学級でよいか相談しに行ったらしく、普通学級でよいと言われたとのこと。
3. 小学校
●お道具箱の出し入れで、あれを出しなさいと先生の指示、みんなが出して片付けた頃に兄はようやく出していたと母。
●夏休みの田舎、皆でバスで出かける時に異常なまでにバスに乗るのを嫌がる。従兄が途中まで一緒に歩いて、バスが追いついたところで無理やり乗せたが私の幼心にもおかしかったと記憶に残っている(妹の私はちゃんと乗っているのだから)。
●長兄(本人の5学年上の兄)にとにかくプロレス技をかけられる。兄弟なら普通のことでも兄には「お兄さんはこわかった。」という記憶。5学年下の私に言い負かされることもしばしばアリ。
●母と私と3人で出かけた時に途中で行きたくないと言い出し、2つ目の駅で「ここで降りて帰り。」と母に言われて電車を降りたものの(小学生でも1人で帰ることができる場所)、結局その駅で私と母が戻るのを何時間も待っていた。その時も私は幼心に変やなぁと思いました。
●小学校高学年の時、初めて出前の電話をさせる(長兄がおもしろがって)。「たまごとじうどん、いちっ!!!親子丼、いちっ!!!」にみんなで大笑いしたけど、今思えばかわいそうなことをした。
●お遊戯ができなかった、電話もなかなかかけられなかったということは、50を過ぎた今でも言います。
●小学校高学年、遠足の待合わせ場所が校外の時は大騒ぎ。兄の「行けるやろか?」の心配がすごかった。
4. 中学校
●いじめを受ける。池に突き落とされてビショビショになったり、学生服を破られたり、挙げ句の果てには歯を折られたりして帰ってきたが、休むことはなかったし親に何かを訴えることもなかった。
●この頃については、いじめられていた以外に私にもあまり記憶がなく、兄もほとんど話さないが、この頃仲が良いと家族みんなが思っていたA君が実は悪い人(いじめの張本人)だったことを随分あとに兄が言って驚いた。
5. 高校(2年生の頃発症)
●発症するまでとにかく勉強をがんばっていた。高校1年生or2年生1学期に面談で「神戸大学は妥当」と言われたと母が何度も言っていた。兄もこの頃はがんばったと言っている。
●その頃の勉強方法は「丸暗記」。こちらがしんどくなるくらい何度も何度も読み上げる勉強だった。最近兄に聞いた話では子どもの頃から「文章」が理解できなかった、記憶することは得意だったとのこと。
●発症後、高校3年生(1年目)の時に文化委員長になり文化祭準備を仕切ることになるが、ここで高校の時の先生にかなり浮いていたと父があとから聞かされる。当時中学生だった私も、メンバーに電話までして何やら指示している姿を見て、これは嫌がられているだろうなぁと思っていた。母も心配していた。
●周りから浮いてしまうくらいの変なヤツだったので留年した3年生(2年目)の時に全校生徒の前で「○○さんみたいになったらダメなんです。」と後輩に言われたことが「恥をかかされた記憶」として今もなお深い傷として残っている。
●兄の頃は制服がなく、私服での通学だった。兄には服装に独特のこだわりがあり、スーツにネクタイで通っていた。卒業アルバムは生徒の顔写真の下(体部分)はイラストだったのだが、しっかりスーツにネクタイで描かれていて「あらあら」と思いました。
6. その他(兄のこだわりや空気の読めなさ)
●服装→カッターシャツにスラックス。Tシャツ、ポロシャツ、ジーンズ、スエット、ジャージ一切ダメ。現在もパジャマかシャツ&スラックス。なぜか和服好み。かっこいいと思っているよう。着付はもちろんできません。
●食べ物→お子ちゃま傾向強し。さすがに最近はひじきの煮物を買ってくるようになった。食べつけないもの、珍しいものは絶対ダメ。実家にいた頃これ食べてみいひん?と母が言っても「いらんわそんなもんっ!」は日常茶飯事。
●エリート礼賛、成績重視→外科医になりたい時が長かった。お道具箱の出し入れができないのに。手先の器用さが要求される外科医なんて〜と母が兄によく言っていた。
●私高校生の頃の成績にも当時すごくこだわっていて、一度化学で私が「1」をとった時にえらく母に詰め寄り母に平手打ちをした(母への暴力はおそらくこの一度きり)。でも母のことは大好きで、母が癌になった時のノートには愛している(!?)死なないで欲しいということがいっぱい書かれていた。
●私高校生の頃、近所の私の幼なじみが訪ねて来た時(私は留守)「あやはちゃんと学校行ってる?」と切羽詰まった口ぶりで聞かれて少し恐かったとその友達に言われた。25年以上たった同窓会の時にその友達にお兄さんはどうしたはる?と聞かれ、長兄のことをまず答えたら「違う、二番目のお兄さんどうしたはる?あや学校行ってる〜?・・」とおもしろそうに言われ、何と答えたか忘れましたが、中学校、高校の同窓会には今後一生行くまいと決意(私の愚痴でした)。
●高校生の私が喘息発作で苦しんでいる時に、その私の目の前で母に「あやは死ぬんか?」と真面目な口調で聞いた兄。その後私の発作が悪化したのは言うまでもありません(笑)
●大きな声で唐突に話す。例えば以前、北大路ビブレにご飯を食べに行った時に、「◎◎先生どうしてはる?」といった唐突感半端ない質問を大きな声でする。近くにいる人がチラッと見る。その先生に私は習っていないし卒業後30年で消息を知っている先生はそういないでしょう?こちらは考えてもいないけど兄の頭にはずっとあるのでしょうね・・
●独特の言い回し→「お父さんに使用人雇ったら?」(←実家が散らかって大変という話をした時)、「情報処理概論勉強せなあかん」(←パソコンができるようになりたい)、私が兄宅の掃除を終えて帰る時「ありがとう、さようなら。」等々。シチュエーションにそぐわない言葉を使うことがたびたびある。
☆アスペルガー症候群とLDあたりかなぁと個人的には思っております。
長文失礼いたしました。
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医療法人 ◎◎会 △△病院
医療福祉相談室 ソーシャルワーカー ○○ 様
参考になるかわかりせんが、○○○(兄)のこれまで(発達障害っぽいところ)を綴ってみました。今までにもお伝えしたこと、一部私の愚痴もありますがお許しください。
1. 生まれる時
●帝王切開。次に生まれる私との比較で、麻酔が効き過ぎていたように思うと亡き母語る。私の時は切っている感触があり医師の会話も聞こえ意識はあったが、兄の時はまったく意識がなかったとのこと。
2. 乳幼児期
●とにかくおとなしく育てやすかったと母。長兄がわがままですぐ癇癪を起こしたのとは対照的。
●母から離れなかったらしい。母がトイレに行くとドアの前でずっと待っていた。なので、母にとってはすごくかわいかったようだ。
●父曰く幼稚園の時、お遊戯ができず皆の動作とワンテンポずれていた。
●幼稚園には年中で入園し、なぜか途中から保育園に転園している(その頃母は専業主婦)。
●小学校入学に際しては普通学級でよいか相談しに行ったらしく、普通学級でよいと言われたとのこと。
3. 小学校
●お道具箱の出し入れで、あれを出しなさいと先生の指示、みんなが出して片付けた頃に兄はようやく出していたと母。
●夏休みの田舎、皆でバスで出かける時に異常なまでにバスに乗るのを嫌がる。従兄が途中まで一緒に歩いて、バスが追いついたところで無理やり乗せたが私の幼心にもおかしかったと記憶に残っている(妹の私はちゃんと乗っているのだから)。
●長兄(本人の5学年上の兄)にとにかくプロレス技をかけられる。兄弟なら普通のことでも兄には「お兄さんはこわかった。」という記憶。5学年下の私に言い負かされることもしばしばアリ。
●母と私と3人で出かけた時に途中で行きたくないと言い出し、2つ目の駅で「ここで降りて帰り。」と母に言われて電車を降りたものの(小学生でも1人で帰ることができる場所)、結局その駅で私と母が戻るのを何時間も待っていた。その時も私は幼心に変やなぁと思いました。
●小学校高学年の時、初めて出前の電話をさせる(長兄がおもしろがって)。「たまごとじうどん、いちっ!!!親子丼、いちっ!!!」にみんなで大笑いしたけど、今思えばかわいそうなことをした。
●お遊戯ができなかった、電話もなかなかかけられなかったということは、50を過ぎた今でも言います。
●小学校高学年、遠足の待合わせ場所が校外の時は大騒ぎ。兄の「行けるやろか?」の心配がすごかった。
4. 中学校
●いじめを受ける。池に突き落とされてビショビショになったり、学生服を破られたり、挙げ句の果てには歯を折られたりして帰ってきたが、休むことはなかったし親に何かを訴えることもなかった。
●この頃については、いじめられていた以外に私にもあまり記憶がなく、兄もほとんど話さないが、この頃仲が良いと家族みんなが思っていたA君が実は悪い人(いじめの張本人)だったことを随分あとに兄が言って驚いた。
5. 高校(2年生の頃発症)
●発症するまでとにかく勉強をがんばっていた。高校1年生or2年生1学期に面談で「神戸大学は妥当」と言われたと母が何度も言っていた。兄もこの頃はがんばったと言っている。
●その頃の勉強方法は「丸暗記」。こちらがしんどくなるくらい何度も何度も読み上げる勉強だった。最近兄に聞いた話では子どもの頃から「文章」が理解できなかった、記憶することは得意だったとのこと。
●発症後、高校3年生(1年目)の時に文化委員長になり文化祭準備を仕切ることになるが、ここで高校の時の先生にかなり浮いていたと父があとから聞かされる。当時中学生だった私も、メンバーに電話までして何やら指示している姿を見て、これは嫌がられているだろうなぁと思っていた。母も心配していた。
●周りから浮いてしまうくらいの変なヤツだったので留年した3年生(2年目)の時に全校生徒の前で「○○さんみたいになったらダメなんです。」と後輩に言われたことが「恥をかかされた記憶」として今もなお深い傷として残っている。
●兄の頃は制服がなく、私服での通学だった。兄には服装に独特のこだわりがあり、スーツにネクタイで通っていた。卒業アルバムは生徒の顔写真の下(体部分)はイラストだったのだが、しっかりスーツにネクタイで描かれていて「あらあら」と思いました。
6. その他(兄のこだわりや空気の読めなさ)
●服装→カッターシャツにスラックス。Tシャツ、ポロシャツ、ジーンズ、スエット、ジャージ一切ダメ。現在もパジャマかシャツ&スラックス。なぜか和服好み。かっこいいと思っているよう。着付はもちろんできません。
●食べ物→お子ちゃま傾向強し。さすがに最近はひじきの煮物を買ってくるようになった。食べつけないもの、珍しいものは絶対ダメ。実家にいた頃これ食べてみいひん?と母が言っても「いらんわそんなもんっ!」は日常茶飯事。
●エリート礼賛、成績重視→外科医になりたい時が長かった。お道具箱の出し入れができないのに。手先の器用さが要求される外科医なんて〜と母が兄によく言っていた。
●私高校生の頃の成績にも当時すごくこだわっていて、一度化学で私が「1」をとった時にえらく母に詰め寄り母に平手打ちをした(母への暴力はおそらくこの一度きり)。でも母のことは大好きで、母が癌になった時のノートには愛している(!?)死なないで欲しいということがいっぱい書かれていた。
●私高校生の頃、近所の私の幼なじみが訪ねて来た時(私は留守)「あやはちゃんと学校行ってる?」と切羽詰まった口ぶりで聞かれて少し恐かったとその友達に言われた。25年以上たった同窓会の時にその友達にお兄さんはどうしたはる?と聞かれ、長兄のことをまず答えたら「違う、二番目のお兄さんどうしたはる?あや学校行ってる〜?・・」とおもしろそうに言われ、何と答えたか忘れましたが、中学校、高校の同窓会には今後一生行くまいと決意(私の愚痴でした)。
●高校生の私が喘息発作で苦しんでいる時に、その私の目の前で母に「あやは死ぬんか?」と真面目な口調で聞いた兄。その後私の発作が悪化したのは言うまでもありません(笑)
●大きな声で唐突に話す。例えば以前、北大路ビブレにご飯を食べに行った時に、「◎◎先生どうしてはる?」といった唐突感半端ない質問を大きな声でする。近くにいる人がチラッと見る。その先生に私は習っていないし卒業後30年で消息を知っている先生はそういないでしょう?こちらは考えてもいないけど兄の頭にはずっとあるのでしょうね・・
●独特の言い回し→「お父さんに使用人雇ったら?」(←実家が散らかって大変という話をした時)、「情報処理概論勉強せなあかん」(←パソコンができるようになりたい)、私が兄宅の掃除を終えて帰る時「ありがとう、さようなら。」等々。シチュエーションにそぐわない言葉を使うことがたびたびある。
☆アスペルガー症候群とLDあたりかなぁと個人的には思っております。
長文失礼いたしました。
平成28年2月7日
まめお〜
まめお〜
コメント
コメント一覧 (4)
子供の頃の様子でそう思います。
統合失調症は、先天的な要素が強いみたいですね。
環境やストレスなどで、思春期発病が多いと。
そして、発達障害があると、精神的に弱いので、発病しやすいみたいだと。
そんな記事を読みました。
発達障害って、どこまでを言うのか判然としないんだけど・・
孫にも該当するような言動が時々ありまして。
娘は真剣に関係機関に相談した事あります。
私は、この子の個性だと思って長所でもあり短所でもあると考えたのですが。
次兄の主治医には2012年暮れに「発達障害の診立ても加える必要があると思います」・・と言われて、やっぱり!というか遅っ!!という感じでした
おっしゃるとおり、発達障害→弱さ・生きづらさ→二次的障害としての精神疾患の発症ということがあるので(一般的に、発達障害と統合失調症の合併はかなり予後が悪くなるようで・・)発達障害の早期発見・早期療育は非常に重要なことだと、私は実感しています。
先日次兄が主治医にコミュニケーションが苦手であることを直接訴えたので、担当の精神保健福祉士(PSW)の方に発達障害の方が集まるような場所(グループ)がないか調べて欲しいという指示があったことをお聞きし、次兄の子供の頃からのそれらしい出来事を上記のとおりまとめてファックスしたものです。
一口に発達障害と言っても、種類もいろいろありますし。
幼稚園での仕事の際に園長先生と発達障害の話もすることがありますが、先生方は皆そう思っていても、お母さんが決して認めない等々、周りの大人が療育への道を断ってしまうケースがあると聞きます。
もちろん!!人によっては個性の範囲内でうまくいっているケースはたくさんあるとは思います。そうなんです、どこからが発達障害?というのも正直わかりませんよね。次兄も小学校までは良い先生や友達に恵まれて、周りはおとなしい子・不器用な子くらいにしか思っていなかったけど中学校からはやはり・・・。母は大人になればなんとかなるだろうと思っていたと言っていました。ただ、大人になってから壁にぶつかる方も多いですよね。
今は法律もでき、療育方法もいろいろとあるようなので、それを利用しない手はないのかな・・・と思います。私もまだ、次兄に対してできることを模索しています。
長くなってごめんなさい
発達障害がある可能性を、先生が親に進言しても認めたくない親がいるでしょうね。うんうん。
私は何十年と沢山の子供たちの成長を見てきたのでよく分かります。
看護師ですが、ほとんどを教員として過ごしましたので。
他と少し変わっている特徴がある子がどう大人になって行くか見ていた事も多いです。
娘が、下の弟や身近にいる甥・姪たち、それに友達の子供達と比べて、発達障害があるかもと、心配する上の子について、私は心配ないと思っています。
しかし、娘が関係機関と連絡を取り、今後も子供の様子を見続ける事を選択した事は、とてもいい事だと思っています。
その子の性格や行動、短所長所は、娘と似ていなく、実はその子の叔父にあたる私の息子の、子供の頃とそっくりなのです。
もしかしたら、私は息子の発達障害を見過ごしてきたのかもしれないと、マジに思ったりしました。
ご自身のお子さんだけでなく、多くの子どもたちの成長を見守ってこられたのですね。
また母親として、ご自身の息子さんとそっくりと感じておられること・・これは娘さんにはわからない重要なことだと思います。
結局のところ、本人が生きづらいかどうかかな・・と思います。書いておられるように、仮に息子さんの発達障害を見過ごされてきたとしても、息子さん自身が生きづらさを感じていらっしゃらなければ、もしくは、感じたことはあっても、今特に問題がないのだとすれば、障害はないのだと思います。
きっと同じように、お孫さんも心配ないのではないでしょうか。
次兄の場合、子どもの頃次兄と似たタイプだった人が親戚にいるかどうかはわかりませんが・・少なくとも、長兄と私とはまったく異なる性格というかタイプというか・・
また、本人も大変な生きづらさを感じていたと申しております。本人が生きていく上で障害ならば、それは障害なのだろうと。
うまく書けなくて・・・申し訳ないです